※この文章は、2020年8月に北海道新聞、東京新聞、西日本新聞に掲載された芥川龍之介賞受賞記念エッセイです。
1996年に任天堂から「ポケットモンスター赤・緑」が発売された時、私は5歳か6歳くらいだったが、これはいいな、やってみたい、と感じた。その時はまだ自分で金を稼いでいなかったから、親か、祖父か祖母か、忘れてしまったがとにかく人に買ってもらい、色々なポケットモンスター、略してポケモンを捕まえ、育て、戦わせて楽しんだ。
似たようなモンスターばかりでは、プレイしても楽しめず、ソフトが売れない。ソフトが売れないと、会社は利益を上げられない。だから、大人たちが知恵を絞って揃えたであろう、様々なポケモンがいた。当時、確か151匹いたと思う。今は、もっと増えただろう。ポケモンは、いくつかのタイプに分けることができた。たとえばフシギソウやフシギバナといった、草や花を思わせるポケモンは草タイプ。トサキントやコイキングといった、金魚や鯉など魚介類のポケモンは水タイプというように。私は次第に、ポケモンをしていない時もポケモンのことを考えるようになり、花を見ては草タイプのポケモンを思い出し、金魚を見ては水タイプのポケモンを思い出す、という状態になった。ポケモンはゲームの中のみならず、通学路や学校にもいるのかもしれない。会ったり触ったりすることができるのかもしれない。そう思うと、退屈な現実世界とゲームの世界が接続されたかのようで嬉しかった。いかにも子供じみた考えだが、実際に5歳か6歳の子供だったのだから無理もないだろう。
そのうち私は、自分なりのルールを作って遊ぶようになった。ポケモンに似たものを見ると、そのポケモンを捕まえたことになり、151匹のポケモンたちをすべて揃えればクリアというゲームだった。
ポケモンの図鑑を眺め、まずは手頃なポケモンに狙いをつけることにした。草や花をモデルにしたポケモンは比較的簡単だ。そのへんに生えている。ネコやネズミなど、実在する動物をモデルにしたポケモンも見つけやすい。普通に歩いていて出てくることもあるし、ペットショップや動物園に行けば、一度に大量に見つけることができた。
問題は、伝説のポケモンと呼ばれる、ミュウツーというポケモンだった。ミュウツーは、伝説のポケモンだけあって、この世界に存在する生物、無生物のどれにも似ていない。腕が二本、脚が二本、眼が二つあり、強いて言えば人間に近いかたちをしているが、大きな尻尾が生えているし、角みたいなものも二つある。よく見ると、手足のデザインも人間とは少し違う。指の数が若干少ないような気がする。かなり凶暴で、サイコキネシスを使う。ミュウツーのほかにも、何匹か捕まえられないポケモンがいて、そもそもこれは私が勝手に始めたことで、達成できなくても、何のペナルティもない。私はいつしか諦めてしまい、この遊びをやめた。
が、このように、ひとりで自由に遊ぶのが好きだったのだろう。小説もそうだ。ルールを自由に設定し、好きな時に始め、好きな時にやめることができる。誰にも邪魔されることがない。今回の受賞も、ひとりでポケモンを探していたあの日の延長線上にあると言うこともできる。