※この文章は『文學界』2020年3月号に掲載されたものです。
人は毎日色々なものを触る。参考書を触り、領収書を触り、寿司を触り、ハンバーガーを触り、犬を触り、猫を触り、自分の顔を触り、自分の性器を触り、他人の肩を触り、他人の性器を触る。何も触らず生きていくのは難しいし、試さないほうがいい。しかし、触る必要のないものまで触るのはやめたほうがいいだろう。2019年12月29日18時11分頃、私は原宿駅でなぜか他人に右腕を掴まれた。暖かそうな黒のダウンを着た年上の男だ。身長は私より低く、体重は私より重い。私は177.4センチで、61.2キロだから、そういう男がけっこういる。暗い色のジーンズで、白い部分のあるスニーカーを履いていた。顔は覚えていない。というのは、私が覚えようとしなかったからだ。覚えていても気分が悪くなるだけで、私にとっていいことがない。肌が浅黒かったのだけは覚えている。あの男は、私の腕を触る前、何を触っていただろう。
トイレで長時間立っていたことがある。順番待ちをしていたのではない。用を足した後、ハンドソープを使って手を洗う人間と、水だけで済ませる人間の割合を調べる必要があって、それで立っていた。事情があって時期をはっきりと書くことはできない。ただ寒くはなかった。
駅のトイレだった。サンプルに偏りがあってはいけないから、多様な人間が訪れる場所として駅を選んだ。勤め人ばかりになってしまってもいけないから、通勤の時間帯は外した。混雑する駅は避けた。サンプルは多いほうが早く済むが、あまり人数が多くても、私はひとりしかいないから、正確なカウントができず、意味がないし、何よりトイレの利用者に迷惑をかけてはいけない。比較的きれいなトイレを選んだ。というのも、汚いトイレにずっと立っているのは、気分が悪いからだ。しかし清潔すぎても偏りが出てしまうだろうから、ほどほどにした。利用者に見ていることが悟られないよう、細心の注意を払った。私がそこに立っている以上、何らかの影響を与えてしまうのはやむを得ない。しかし影響を最小限にする努力はするべきだ。考えた結果、鏡に向かって髪を触っているのが最も違和感がない、と結論した。直接見るより、鏡で視線をワンバウンドさせたほうが相手に気付かれにくい、という考えもあった。しかしこれは私の推測で、根拠のあることではない。個室を使った人間からすると、入った時に髪を触っていた人間が、出るときもまだ髪を触っているのは奇妙だったろうが、その駅は私の生活圏内になく、どうせ二度と会うことのない人間。迷惑をかけたわけではないし、多少ナルシストだと思われるくらい、なんでもない。それに私はマスクを着けていた。顔さえ見られなければ、何も見られていないのとそれほど変わらない、ということもできる。
立っていたのは30分と少しくらいだったろうか。私はとりあえず50のサンプルを得た。100くらいあったほうがよかったかもしれないが、別に論文を書くわけではないから、私がいいと思えば、それでいい。個室の中で、人は何をしているかわからない。もしかしたら、手を洗うようなことは何もしていないかもしれない。私の考えでは、トイレに入った以上は手を洗うべきだが、これが多数派の考えかどうか、私は自信がない。だから個室は除外し、そうでないほうのみ数えることとした。鏡だけ見て出て行ったり、あるいは私には理解できない動きをして出て行った人間は、もちろん除外した。記録は携帯電話で取った。それ以外に、方法はなかっただろう。なんでもいいが、便宜上、ハンドソープを使って手を洗った者を「あ」、水だけで済ませた者を「か」、全く洗わなかった者を「さ」とした。当初、私は「さ」の存在を想定していなかったから、「さ」は調査を始めてから設けた区分、ということになる。しかし今思えば、事前に想定していて然るべきだった。結果は「あ」が16、「か」が28、「さ」が6だった。ハンドソープは据え付け型の、よくある下から押すと液体が出てくるタイプだった。液体は十分補充されていた。触るのが憚られるような、目に見える異状もなかった。私の通っていた神奈川県藤沢市の小学校では、そういう時代だったのか、金がなかったのか、地域性か、網に入った石鹸が蛇口に吊るされていていた。網はろくに取り替えていなかったのだろう、いつも黒く変色し、触るのが憚られた。あのようなことはなかった。というか、本来あるべきではなかったのだ。
私はこの結果について、ここで所見を述べるつもりがない。もちろん、思うところがないわけではない。だから、そのうち小説でこういう話を書くだろう。しかし、明日のことはわからない。今ここでひとつだけ言っておくことがあるとしたら、洗っていない手、あるいは水だけで済ませた手で私の体に触るのはやめて欲しいということだ。