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記憶

※この文章は『群像』2020年6月号に掲載されたものです。

いつかの真夏、電車に乗っていると、ドア一つ分ほど離れたところにいた女が何か叫んだ。私はノイズキャンセリング機能の付いた機器で音楽を聴いていたが、それでも十分耳に届いた。

私が乗っていたのは東海道線で、その時は品川と川崎の間を走っていた。横浜駅に向かう途中だった。会社員の退勤時間と重なってしまったようで、車内は込み合っていたが、まずまず良い位置を確保できたので、それなりに落ち着いて小説を読んでいられた。安部公房をよく読んでいた時期だったから、その時も安部公房だった可能性が高く、私は誰か、人に会いに行くところだったのだと思う。誰と会って何をしたのかは忘れたが、その日は気分がよく、ドラッグストアの知らない店員に微笑みかけたりもしていた。知らない店員に年中微笑みかけている人間もいるかもしれないが、私は余程気分が良い時にしかしない。

女の声は、大きかったわりに、何を言ったのかは聞き取れなかった。それからすぐに、女の近くにいた男が、よし、よく言った、声上げんの待ってたんだ、と叫んだ。こちらは不思議なほどクリアに聞き取れた。その時の私は、妙に長い台詞を言う男だと思ったが、こうして文字にしてみると実際はそれほど長くない。

長台詞の男は、別の男を、取り押さえようとしているようだった。男は、私の位置からもわかるほど激しく抵抗し、長台詞の男を退けるかと思った。が、近くにいた男何人かが、声を上げながらすぐに長台詞の男に加勢したらしい。しばらくすると、男は床に押さえつけられたようで、私の位置からは頭さえ見えなくなった。長台詞の男が、声上げんの待ってたんだよ、と先程も言ったことをまた口にした。車両中の人間に聞かせようとしているかのような大声で、彼にとっては、どうしても伝えたいことだったのだろう。叫んだ女は声を上げて泣き、別の女が何か声をかけていた。窓の外を見ると、少し奇妙な形をした夕暮れの路地が私を誘うように思ったが、路地は人間を誘ったりはしない。路地だけでなく、森、山、海、空、星、宇宙、こういったものはすべて、人間を誘うことなどない。それらはただそこにあるだけで、人間が自分たちで理由を作って勝手に行くだけだ。とはいえ、心惹かれる路地であったのは確かなので、この場所を覚えておいて、いつか散歩してみようと思った。こういう思い付きは、私の場合ほとんど実行されないし、実際に、あの路地を散歩したことはまだない。その時思って、数秒後にはすっかり忘れ、それで終わりだ。この文章を書かなければ、こうして思い出すこともなかっただろう。しかし時間が経った今思い出しても、やはりあれは魅力的な路地だった。が、これを書き終える頃にはどうせまた忘れる。

電車はやがて、川崎駅に着いた。この間、私は安部公房を読んでいたし、音楽も聴いていたから、あの男たちや、叫んだ女があれからどうしていたのかは知らない。関心を持ち続けるには、私の位置は少し遠すぎた。しかし、新たな動きがあれば、私もそれに気付いていただろうから、おそらくあれから状況の変化はなかったのだと思う。

ドアが開き、5人の男たちがひとかたまりになって外へ出て行くのが見えた。ほかの乗客は、男たちのために道をあけ、彼らが外に出るのを待っていた。5人の男たちをもう少し具体的に説明すると、ふたりが両脇からひとりの男の体を押さえ、ひとりが先導し、ひとりが後ろから目を光らせていた。私はどれが長台詞の男なのかを知りたいと思い、しばらくイヤホンを外して男たちの声に注意していた。が、すぐに本心で知りたいと思っているわけではないとわかったので、また音楽を聴き始めた。

男たちに続き、泣いていた女も、別の女に付き添われて電車から降りた。彼らを迎えるように、駅員が小走りでやってきて、これはつるんとした白い肌の男だったが、その時取り押さえられていた男が暴れ出した。この男は、おそらく30代の後半で、体が大きく、白いシャツを着ていた。折り目のついたグレーのスラックスを穿き、会社員のようだった。彼は、両脇の男たちを振り払って走り出したが、すぐに別の男たちが押し潰すように彼を捕まえた。彼は倒され、地面に顔を押し付けられていた。顔からは血が流れていた。着ていた白いシャツが大きく破れ、よく日に焼けた腕や肩があらわになっていた。男の体を押さえた暗い服の中年が、逃げられると思うなよ、と聞き覚えのある声で叫び、彼が長台詞の男だとわかった。その後のことは、あまり覚えていない。

私の記憶はひどくまだらで、覚えていることは細部まで覚えているが、忘れていることはとことん忘れている。今日の昼食はもう思い出せないが、数年前に道ですれ違っただけの人間の、ほくろの位置や、眼球の動きを覚えていたりする。私に限らず、人の記憶はこんなものかもしれない。何か引っかかったことはいつまでも覚えているが、そうでないことはすぐに忘れるのだろう。前述の場面を私がよく覚えているのは、男が着ていた白いシャツがフィクションのように大きく破れていて印象的だったのと、沈みゆく太陽の光を受け、鮮やかにきらめいていたからだ。